any’s things

普通の女子大生が日々おもうことをつらつら書いてゆきます

宗教と「宗教」と日本人

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昨日、チャリのかごにタバコの空箱が捨てられてました。

あとで捨てようと思って忘れて

空箱が入ったまま駐輪場にチャリを置いて夜、もどると

チョコの空箱が増えてました。

 

これに関して集団心理や罪悪感の分散について一本記事を書きたいところですが、

今日のメインはそこじゃありません。

 

帰るときに、このゴミのことを考えていて、

本当にふと、思ったんです。

 

神様が私に入れたんじゃないかな~。って。

 

 

多くの日本人がそうである様に私には、深くコミットしている宗教がありません。

 

でも中高大とキリスト教系の学校で育ってきたので、

「神様」にそんなに抵抗はありません。

それから夏前には、日本人として宗教を学びたいと思い

若者中心のキリスト教教会に数度おじゃましました。

 

教会で出会った人に、通うようになったキッカケ、神を信じるようになったキッカケを聞くと

「最初は疑ってたけど、信じてみようと思って毎日聖書よんで神様と会話してたら

奇跡みたいなことがおこったの!」

と、みんな言っていました。

 

奇跡みたいなこととは、嫌なことが解決したり、いい知らせが来たり就職が決まったとか、

一般のひとから見ると

「神様のおかげ!」と断定するほどに非現実的なことではありません。

 

神様との会話も私にはよく分からなかった。

でも昨日の一件で、何かがすっと繋がった気がしました。

 

神様が私を選んで私にゴミをよこしたなら、

喜んで捨てようって、

信者でもない私がごく自然に思ったんです。自然に。

(これをキッカケに入信したということではありません)

 

それからそんな生き方って、すごく素敵だなと思いました。

宗教に参加している人って、「いい人」が多いんです。

新宗教」と好機の目で見られがちな地域密着、仏教ベースの新興宗教の信者さんなんかも

信仰心から街を掃除したり、ボランティアで徳を積んでいらっしゃったりします。

 

人が嫌がることをナチュラルに受け入れられることはとても素敵だなと。

そう思いました。

これが神様との会話なのかなとも思いました。

 

正直に言うと、

教会に数回通ったのち、とてもパーソナルスペースの近い信者さん方に

すこし恐怖を感じ、通うのをやめてしまいました。

あまりよろしくないタイプの「宗教」団体だった、とは一切思いません。

でも、私にも「宗教」への不信感という、日本人マインドが刷り込まれているのだなと

恥ずかしく思いました。

 

信仰とは自由なもので、我々の思う「宗教」はむしろ

ごく一部の例なのかもしれません。

 

私はこれからも宗教にコミットすることはないと思いますが、

それは不信感からではなく、単に傲慢で

自分や身近な人への信頼が十分私を直立させてくれると思うからです。

 

ただ、日本人の宗教観は変わるべきだと思うし、

本当に今後グローバル社会に飛び出していきたい人間であれば、

日本人として宗教を語れることは必須だと、私は考えます。

 

欧米やアジアの人がナショナルアイデンィティの成員の一つとして重んじている宗教。

そんな大きな共通の柱を持たない我々日本人。

日本人を日本人たらしめる国民共通の柱って、

一体なんなんでしょう。

 

おもしろくないですか?

 

今年もそろそろクリスマスがやってきますね。

それから新年には、私も着物を着て初詣に赴く予定です。

 

 

 

さて、「無宗教」の国日本に暮らすみなさんはこの冬、どうお過ごしでしょうか。