any’s things

普通の女子大生が日々おもうことをつらつら書いてゆきます

責任

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個人ワークかグループワーク、どちらが良いのだろう?

という話が、英語の授業の中でありました。

ポイントとして、weak people、すなわち自発的な活動が苦手な子 の存在を意識する必要がありました。

 

people who have enough ability to work individually have responsibility for helping weak people.

(個人で活動することが十分に可能な人は、そうでない人を助ける責任があります。)

というニュアンスの意見が出たのですが、

have responsibility for

これが気になってしまいました。

 

正直なところ。

そんな責任、あってたまるかいと思ってしまったわけです。

 

weak peopleにとって、自分より秀でた人に助けてもらうことって素晴らしいことですよね。

でも助ける側にとってはどうなんでしょうか。

 

確かにグループワークって、自分にないものの考え方や刺激をくれます。その意味ですごく有用なものだと思います。でもそれはやっぱり、自分以外のメンバーが自分よりもハイレベルだと感じるからだと思うんです。

じゃあそのハイレベルな人たちは、私との会話から何を得たんでしょう。

 

日本がなぜノーベル賞を取れないかっていう理論がとてもこれに似ているんです。

 

算数が得意で、国語が苦手なA君。

これに対して国語も得意になれるように勉強しようね、というのが日本。

苦手な国語はひとまず置いておいて、人より誇れる算数をもっと伸ばそうね、

これが欧米だという考え方です。

 

グループワークでweak peopleが伸びていくことは、必ずしも助けた側の成長と無関係ではありません。

しかし、「かしこい人」の記事

 

かしこい人 - any’s things

 

で述べたように、新しいことを学んで自分の根拠にする「学び」とは別物です。

 

下にあわせていたら、底上げはできても天井は変わらない。

でもモチベーションがあって、ほんとうに伸びたいと思っているのは

下にいる人でなくて、上を見据えて頑張ってきた人ではないでしょうか。

 

もちろん、グループワークが悪いわけではありません。

 

ただ、思うのは。

下を見て、手を差し伸べることは義務や責任じゃない。

学び成長することは、人に与えられるだけじゃだめなんです。

どこかで自分から手を伸ばさなければならないその一歩を、他人の責任にしていいのか。

 

すくなくとも私は、自分の知識欲なんかをきちんと満たしつつ、

迷って困っている人に「教えてほしいんだけど、」と自分から声をかけてもらえるような、

そんな、無責任な他人でありたいんです。