any’s things

普通の女子大生が日々おもうことをつらつら書いてゆきます

上を見て走る

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将来のこと、就職のことを考えるようになり

自分がどんな仕事をしたいか、どんな環境で働きたいか考えはじめました。

 

私は、世間の多くの学生さん方と同じく大企業志向です。

安定とか福利厚生の充実とか、そういうものももちろん大事ですが

私が大企業を志したいと思ういちばんの理由は、

すごい人、に囲まれていたいと思うからです。

 

以前の記事で、グループワークと個人ワークはどちらが効率的か?

というような話を書きました。

社会人として会社に入ることって、

一つの大きなグループに、チームに入ることじゃないでしょうか。

その中で独りよがりで個人ワークを貫くことはできません。

 

その記事では、グループワークはレベルの底上げがメインとなってしまい

意欲的な、いわゆる「天井」層の人たちの直接的な成長が軽んじられてしまうのでは、

という風に書きました。

 

その気持ちはもちろん今ももっています。

そうなると当然、会社というチームに入るにあたって

少しでも天井の高いチームのメンバー達をを下から追う存在であることが

自分にとって刺激的な将来なんじゃないかな、と、思うわけです。

 

大企業の方がレベルが高い、中小企業はレベルが低い

そんな話ではありません。

 

ただ、このご時世、理由の明瞭さに関わらず

大企業を志す学生は五万といるわけで。

人が集まる企業は当然、良い人材を選りすぐって集める。

学歴で優位なわけでもないし、体育会系で頑張っているわけでもない私の武器は

生身の自分しかありません。

そんな私が、生身で戦える資質に加えていい大学で良質な勉強をしてきたような人がごっそりな集団に放り込まれるとしたら

めっちゃ怖い。えらいことや。

 

圧倒的成長!とかは別にいいんですがやっぱり、日々

みんなすごいなぁ、負けられんなぁと思いながら走っていたい。

 

昨年のインターンシップはまさに

出会ったことのない優秀な学生さんたちに混ざらせていただいて

必死でついていく感覚で過ごした数日間でした。

今まで正直ぬるく生きてきたので、

すごい人たちに喰らい付く、という経験がそもそも初めてでした。

とてもとても刺激的でした。

 

まだまだ知識もあまりに少ないし、企業研究とかもしてないし、当然社会経験もないし

これからビジョンは変わっていくかもしれない。

社会の先輩方から見たら、私なんてただの甘っちょろい学生風情でございます。

 

でも、すごい人の中ですごい人になりたい!なんていう

あほみたいな信念は愚直に変えることなく

これからの将来を考えていけたらいいな、と思います。

 

上のレベルに行きたいなら上だけをみなさい。

下を見ても吸収するものはないから、と

昔から母親に言われてきました。

わたしも、上を見ていきたい。

 

一年半後、就活が始まったときに、

将来を意識しだした一番始めの気持ちを振り返れるように書いてみた今回の記事です。

 

 

ぐだぐだぐだと

いつも以上につたない駄文ですが、、、。

 

今回はこのへんで。

 

つよい女性になる。

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これまですでに

知り合いには特定されそうなレベルで個人的なお話をしておりますが、

実は12日は成人式でした。

 

はたちになって思うこと。

それはやっぱり、内面の美しさを磨かなければならないな、ということです。

 

自発的に手に入れた知識、経験、そして信念

それらは内面をつくりあげるひとつひとつのピースで。

自ら培ってきたものをわたしたちは、人前に晒しながら生きているんだと。

改めていま、痛感しています。

 

女の子は特にだと思いますが、内面って顔に如実に現れます。

 

世界一醜いと言われたリジー・ベラスケスさんというアメリカ人女性。

彼女の写真を最初に見た時、きれいごとではなく、素直に美しいと思いました。

醜いと言われた過去、普通の女の子とは違う外見

そんなものを全て跳ね除ける、静かで力強く、それでいて優しい彼女の笑顔は

まちがいなく美しい、と感じました。

 

強い女性は美しいです。

肉食系とか、物怖じしないとか、そういう強さではなく。

ぶれない女性。まっすぐに人の目を見て話せる女性。

 

人前に立てることが強さじゃない。

誰かを牛耳って、みんなを仕切って。

すばらしいことです。

しかしそれは個性からくる長所にすぎず、本当に内面からあふれ出る美しさとは

また、別のものです。

 

やれ男女平等、やれ女性の社会進出と世間は騒ぎますが

そんなもの、くそくらえや。と思ってます。

どちらかというと社会進出してバリバリ働きたいタイプの私ですが、

力のある人間は、性別なんかに守られる必要ないはずです。

女性にポストを多く与える環境をおぜん立てしてもらって偉くなっても、それが何になるのか。

そもそも地位のために、男性と同等のお金を稼ぐために働くのではないでしょう?

仕事のできる人への報酬は、次の仕事です。

 

わたしは求められてる。そう感じるために動く。

自分が他者を刺激し、周りに影響を与えているのだという自己承認。

それが達成感であり、満足感であり、モチベーションである。

そんなおとなに、「女性なのに」は不要です。

 

そうして自分の価値を認めることで、強さが生まれるんだと思います。

 

ただの一面であっても、自分の持つ資質を誇れる人には、

その他の部分を他人にゆだねる余裕があります。

自分を誇る根拠がないうちは、全部一番でなきゃいけないような気がするんですよね。

でも一つ、この面では自分を絶対的に信頼できると分かれば、不思議と肩の力が抜けるんです。

 

そんな、強さ。

そんな、女性。

 

 

10代までの私は、

人に任すよりも自分でやったほうが早いし上手くいく!

これ一本で突っ走ってました。

でも最近、ようやく余裕を持てるようになってきた気がします。

 

頼れる――ちゃんの仮面で弱気な内面をごまかせる年齢は終わった。

 

わたしたちが成長と共にはめ合わせてきた内面のパズルは

しらないうちに、表情から、しぐさから、

溢れだしています。

 

静かにほほ笑む瞳の奥にするどい光を秘めている。

オーラ。

 

 

 

数年後の私がそんなtwenty somethingになっているように、

ひとつひとつのピースをくみ上げていきたいです。

 

 

最後に

おとうさん、おかあさん、

20年間ありがとう。

宗教と「宗教」と日本人

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昨日、チャリのかごにタバコの空箱が捨てられてました。

あとで捨てようと思って忘れて

空箱が入ったまま駐輪場にチャリを置いて夜、もどると

チョコの空箱が増えてました。

 

これに関して集団心理や罪悪感の分散について一本記事を書きたいところですが、

今日のメインはそこじゃありません。

 

帰るときに、このゴミのことを考えていて、

本当にふと、思ったんです。

 

神様が私に入れたんじゃないかな~。って。

 

 

多くの日本人がそうである様に私には、深くコミットしている宗教がありません。

 

でも中高大とキリスト教系の学校で育ってきたので、

「神様」にそんなに抵抗はありません。

それから夏前には、日本人として宗教を学びたいと思い

若者中心のキリスト教教会に数度おじゃましました。

 

教会で出会った人に、通うようになったキッカケ、神を信じるようになったキッカケを聞くと

「最初は疑ってたけど、信じてみようと思って毎日聖書よんで神様と会話してたら

奇跡みたいなことがおこったの!」

と、みんな言っていました。

 

奇跡みたいなこととは、嫌なことが解決したり、いい知らせが来たり就職が決まったとか、

一般のひとから見ると

「神様のおかげ!」と断定するほどに非現実的なことではありません。

 

神様との会話も私にはよく分からなかった。

でも昨日の一件で、何かがすっと繋がった気がしました。

 

神様が私を選んで私にゴミをよこしたなら、

喜んで捨てようって、

信者でもない私がごく自然に思ったんです。自然に。

(これをキッカケに入信したということではありません)

 

それからそんな生き方って、すごく素敵だなと思いました。

宗教に参加している人って、「いい人」が多いんです。

新宗教」と好機の目で見られがちな地域密着、仏教ベースの新興宗教の信者さんなんかも

信仰心から街を掃除したり、ボランティアで徳を積んでいらっしゃったりします。

 

人が嫌がることをナチュラルに受け入れられることはとても素敵だなと。

そう思いました。

これが神様との会話なのかなとも思いました。

 

正直に言うと、

教会に数回通ったのち、とてもパーソナルスペースの近い信者さん方に

すこし恐怖を感じ、通うのをやめてしまいました。

あまりよろしくないタイプの「宗教」団体だった、とは一切思いません。

でも、私にも「宗教」への不信感という、日本人マインドが刷り込まれているのだなと

恥ずかしく思いました。

 

信仰とは自由なもので、我々の思う「宗教」はむしろ

ごく一部の例なのかもしれません。

 

私はこれからも宗教にコミットすることはないと思いますが、

それは不信感からではなく、単に傲慢で

自分や身近な人への信頼が十分私を直立させてくれると思うからです。

 

ただ、日本人の宗教観は変わるべきだと思うし、

本当に今後グローバル社会に飛び出していきたい人間であれば、

日本人として宗教を語れることは必須だと、私は考えます。

 

欧米やアジアの人がナショナルアイデンィティの成員の一つとして重んじている宗教。

そんな大きな共通の柱を持たない我々日本人。

日本人を日本人たらしめる国民共通の柱って、

一体なんなんでしょう。

 

おもしろくないですか?

 

今年もそろそろクリスマスがやってきますね。

それから新年には、私も着物を着て初詣に赴く予定です。

 

 

 

さて、「無宗教」の国日本に暮らすみなさんはこの冬、どうお過ごしでしょうか。

幸せな人生に必要なものは

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愛 を大きく、幸福な気持ち に包括してしまうとして。

 

愛か、お金か

 

 

お金で幸福は買えません。

でも、お金に困窮していては、幸福を感じる余裕も生まれません。

 

お金がないと、自分にないものを嘆き他人をうらめしく思う。

だから、お金の方が大切なのでしょうか。

お金があると、いつも欲しいものに付きまとわれて満たされない。

だから、愛の方が大切なのでしょうか。

 

私は、ある程度の金銭的な満足感が結果的に愛や幸福をもたらす、

とかんがえます。

でも、お金だけでは幸せになれない。とうぜん。

 

極論を言うと、幸せな人生に必要なものってずばり

他者の存在じゃないでしょうか。

 

 わたしは他者の他者であるとき初めてわたしでありえる。

自分の存在を、他者を通して知ることができたとき、自己肯定感が結果幸せに結びつく

そんな風に、おもいます。

 

お金も愛も、他者なくしては無意味なものです。

 

 

 

影響をうけた本。

じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書)

じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書)